追悼 山原克二さん / 全労協新聞 2020年9月号

追悼 山原克二さん / 全労協新聞 2020年9月号

 


追悼 山原克二さん


ひたすら前を向き
駆け抜けた山原さん


 山原克二さん、大切な人を亡くしてしまった。彼とは非常に艮い付き合いをさせていただき、多くの思い出があります。一九七○年代半ば、私が吹田市で会社倒産・職場占拠を闘っているとき出会い、当時彼は全金(全国金属労組)オルグだったので、さまざまに指導していただきました。


出会いのきっかけは、彼が韓国進出企業である全金平岡争議(東大阪市)のなかで、その関連で日韓連帯運動に関わっており、私は在日良心囚政治犯支援から同運動へ、山原さんと出会いました。以降、八〇年金大中氏らの救出運動、九〇年アジアスワニー闘争など多くの日韓連帯運動や組合作り、団交も共にさせていただきましたが、彼の交渉でのよどみないというか絶え闘ない弁舌は、使用者をも巻き込む魔力がありました。状況を先取りする感性に鋭く、多くの局面で私より一歩先にいて、私などいつの間にか引きずられていった感じです。

 

 たとえば、一九八九年総評解散にともない彼は自らの信念として連合に参加せず、大阪全労協結成に参画し、また九〇年にはおおさかユニオンネット結成に尽力しました。

 

その後九一年に、彼は大阪全労協のなかにセネラルユニオン(職種横断の個人加盟組織)をつくろうと、みずから委員長になり、私は書記長にさせられました。当初外国人組合員はサイモンさんだけだったのですが、その後デニスさんのジオスでの争議を経て、英会話教室の外国人の先生らが次々に加入してきました。数年後には外国人組合員が多数派になり、大会も英語でおこなわれることになって、私は脱落したのですが、山原さんは英語をマスターした--ほとんど単語を並べるだけだったと思いますが--と称して、その後のゼネラルユニオンの発展に無くてはならない人となりました。

 

 こんなに早く彼の追悼文を書かなければならないことが無念でなりません。流動化、転換期の情勢にあって、ひたすら前を向き、状況を拓き、周りを引きつけ、駆け抜けてきた山原さん。数年前に病気を患った後も楽観的に、次は終活だと振る舞っていた山原さん。あらためてご冥福をお祈りします。合掌 泰山拝


(大阪全労協副議長泰山義雄)