宮城全労協
大震災から三年、いまなお三十万人近い被災者が仮設住宅などでの厳しい生活を強いられています。政権浮揚や「安倍外交」のための中央式典は不要です。被災地がそれぞれの歴史を背負って開催する追悼式を尊重すべきです。
安倍政府は大震災以降、二つの災害に直面しました。伊豆大島の惨事は震災が教訓化されていなかったためですが、政府の謝罪はありません。フィリピンの台風災害への支援では「対中国」「日米同盟」が突出し、「非軍事・人間の安全保障」は社会的な関心事から外されました。東京オリンピック・パラリンピックの招致の場で、首相は「汚染水はコントロールされている」とウソをつき、メディアは「最高のパフォーマンス」と持ち上げました。
被災地をリレーでつなぐとか、復興した被災地を世界に見てもらおうとか、どのように言いつくろっても首相発言が被災地、とくに福島県民に与えた屈辱を帳消しにすることはできません。東京電力と国家権力に強要されてきた福島の痛みを共通のものとして、私たちは闘っていきます。
昨年一年間の「震災関連自殺」は三県で三十五人(福島が二十一人)、そのうち「仮設住宅での自殺者は岩手二人、宮城九人、福島一人」(内閣府)だと報じられました。「生き残った命が失われていく」。怒りを国にぶつけねばなりません。
住まい、健康、労働など生活再建に不可欠な分野で、復旧・復興が圧倒的に遅れています。必要な所に必要な予算と人材が投入されていないからです。先を見通せない被災者たちの「故郷流出」が続いています。被災地域の中心産業である農林水産業が各地で取り残されています。政府はその支援に全力をあげるべきであり、TPP参加などもってのほかです。
公的援助を得た企業にとって「被災地は実験場」です。一方「雇用のミスマッチ」が続いています。政府は法人復興税の廃止というトリックをやめ、被災地の最低賃金の大幅引き上げと零細企業への支援強化を実行すべきです。
「仙台圏の繁栄」が「沿岸被災地域の衰退」を意味するのであれば、復興は失敗です。その認識が「創造的復興」をかかげる知事や政財界に問われています。
この間、仮設住宅や地域の住民による運動が行政方針を撤回・修正させてきました。気仙沼など防潮堤計画の見直し、医療費支援の再開(限定付きではあれ)はその代表的な事例です。あきらめない住民議論、独自の学習、行政への継続した運動、協力した全国の人々。「復興の主人公は被災者であり住民である」ことが示されています。
(F)