2015/06/20/ 沖縄戦と辺野古の闘いを語る (京都) (案内)
戦後70年企画
今から70年前、
文子おばぁが16歳の時、
沖縄は戦場でした。
1929年4月生まれ、86歳。沖縄戦では目が不自由な母とともに壕の中で米軍の火炎放射器で半身を焼かれ、その後、重症患者ばかりが収容された宜野湾の病院テントから米兵の目を盗んで母を担いで逃げ出した経験をもつ。
そして今、辺野古新基地建設を阻止するためにきゃんぷ・シュワブのゲート前に立つ。「基地がなければ、戦争はこないんですよ。二度と戦争はあってはならない。もう、ウチたちでたくさんですよ。だから、私はかわいいおばぁになってはいけないわけ。鬼にならんとね!」
今、辺野古で・・・美しい辺野古(大浦湾)の海は世界に誇る珊瑚礁とジュゴンや色とりどりの珍しい魚たちが住んでいます。何よりも命をつないできた豊かな宝なのです。
安倍内閣は、自衛隊の海外派兵の前進基地として辺野古の海を埋め立てて強襲揚力艦も接岸できるオスプレイ用の新基地建設を強行しています。沖縄の人々は、24 時間体制で辺野古の海を守るためカヌーをこぎ出し、監視船を操縦して埋め立て・ボーリングを止めようと身体を張って闘っています。また、キャンプ・シュワブのゲート前では、埋め立て資材搬入を阻止するため闘っています。
その中に、86 歳の白髪のおばぁがいます。時にマイクを持ち、時に資材搬入トラックの前に立ち、時ににこやかにわか者たちと歓談しています。辺野古の島袋文子さんです。
先の大戦で日本が国策を誤り、朝鮮、台湾への植民地政策と中国や東南アジアへの侵略戦争でアジア民衆に多大な惨禍をもたらしました。ミッドウェイ海戦で大敗し、制海権・制空権を失った日本軍が敗戦濃厚が分かっていながらなぜ戦争を長引かせ、沖縄戦があったのか。なぜ全国各地の空襲や原爆投下を招いたのか、国民や兵士の尊い犠牲の上で日本政府と軍部は何を守ろうとしたのか、戦後 70年の今、私たちは知りたいのです。
不戦の誓いである憲法を改悪して再び、国策を誤ろうとしている安倍内閣が許せない。
今から70年前、文子おばぁが15歳の時、沖縄は戦場でした。
沖縄地上戦で米軍の火炎放射を受けて身体をこがされ、ケロイドが残るおばぁは沖縄戦の生き証人。政府が国策を誤って始めた戦争。今また、国策を誤り辺野古に新基地建設。
キャンプ・シュワブのゲート前で島袋のおばぁが仁王立ちして阻止行動の最前線に立つ。
私たちは、この島袋のおばぁの沖縄戦と辺野古新基地に反対する想いをしっかりと受け止め、軟弱な私たち本土の運動を質的に転換する一助にしょうではありませんか。
おばぁはきっと私たちに伝えてくれます。沖縄戦とはどういうものだったか、その後、沖縄の人々がどんな暮らしをして子育てしながら命をつないできたのか、海がなぜそんなに大事なのか、辺野古の海をどんな気持ちで守ろうとしているのか。
おばぁの話は、きっと本土や戦場で生き残った人々の想いと重なることでしょう。
この度、辺野古へ何度も足を運んで島袋のおばぁと知り合いになった川口真由美さんのお願いで島袋のおばぁが京都に来て語り部を引き受けてくれました。
今だからこそ、一人でも多くの方に、おばぁの話を聴いてほしいと願っています。
主催 6・20 講演会実行委員会