撮り鉄 若き日のほろ苦い思い出  嗚呼「団結号」…

自立労働組合連合ニュース 2013年1月号の記事
京都分会の報告記事の一つから。



イメージ 1

筑豊本線(九州)。
D51の前面に「団結」「マル生粉砕」の文字。


イメージ 2

名寄本線(北海道)
雪の中を走る9600型。重連で峠を越えているところ
側面にも大きな文字が。


イメージ 3

室蘭本線(北海道)
C57。前面に「団結」の文字。


◆ 若き日のほろ苦い思い出  嗚呼団結号…

 時は昭和45(1970)年。この頃、国鉄では蒸気機関車(以下SLと略す)が無煙化の波におされ全国各地で姿を消していました。ご多聞に漏れず、当時中学校1年生だった私も俄かSLファンとなり、関西で未だ無煙化されていない関西本線草津線等に日曜日ごとに撮影に出かけていました。しかし、家にあったハーフカメラでは物足りず、新聞の夕刊配達で稼いだ資金を元に月賦(当時はローンなどとはいわなかった)でミノルタ一眼レフカメラを手に入れました。そうなると関西圏だけでは物足りず、まだ多くのSLが残っていた九州まで夜行列車と野宿を繰り返す撮影に出かける決心をしました。

 昭和46年の春、生まれて初めて九州に足を踏み入れました。筑豊本線折尾駅と中間駅の間は複々線となっており関西では見られない大正時代に製造された9600型や8620型等の古典的なSLがD51やD60などと共に5分ごとに走って来ると聞いていたので、関西では考えられない夢のような所でした。

 しかし、その夢をぶち壊すような出来事があったのです。この当時、労働運動はまだまだ盛んで、春闘ともなればストライキも頻繁に行われ、経営者には屈しない強固な団結力があったのでした。国鉄もよく春闘での48時間ストや72時間ストなども行っていた時代でした。この撮影旅行時、ストライキは予定はされていましたが、もう少し後のことでそれには引っかからなかったのですが、走ってくる機関車をファインダーから覗いてビックリ。来る機関車、来る機関車のほとんどが車体のどこかに団結とか春闘勝利、誰々を追放するなどの文字がペンキやチョークで書かれたり、ビラが所狭しと貼り付けてあったりと写真として致命的な被写体となっていました。黒いSLの車体に白い文字ですから目立たないはずがありません。家に帰って出来上がった写真は案の定、見たそのままの文字が写っていました。

 SL撮影は以降3度の九州、山陰、そして2度の北海道とSL終焉の半年前の昭和50年の春まで行いましたが、写真の迫力が出せるのは煙が良く目立つ 寒い時期が好都合で、冬休みに年末のお歳暮を届けるアルバイトをして春休みに撮影旅行に出かけるというのがパターン化しました。これが国鉄春闘と重なり、北海道でもいわゆる団結号の撮影を余儀なくされたばかりでなく、ストライキにも引っかかり1日半を棒に振ってしまったこともありました。自分たちの要求のため、通勤客や旅行者に迷惑をかけて腹が立つと思っていましたが、こういう経験をした私が労働運動に首を突っ込み、旗を掲げて、団結を叫び、ストライキを行うとは思いませんでした。

 今となっては国鉄の労働者の当たり前の労働運動であったことは理解できますが、機関車にペンキやチョーク、ビラでアピールするのだけは堪忍してほしかったなあ。今、これらの写真をデジタル化して整理をしていますが、この写真を見るたびそう思うのです。

 以上、これが私の残念でほろ苦い思い出です。
 
京都分会 (勝)